昭和54年10月01日   朝の御理解

                    
 御理解第36節                       「日本国中のあらゆる神を皆信心すると云うがそれは余りの信心ぢゃ人に物を頼むにも一人に任すと其人が力を入れて世話をして呉れるが多くの人に頼めば相談にくれて物事捗らず大工を雇うても棟梁が無ければならぬ草木でも心と云うたら一つぢゃ神信心もこの一心を出すと直ぐにおかげが受けられる」                                                               
 私は今朝方、こんなお夢を頂いた。Z『或る方が遠方から参って来るわけですけれども、合楽へお参りをすると云うたら或る人が子猫を持ってきて。これを合楽へ行くまでには川か何かあるだろうから、そこへ投げ込んで捨ててくれと言うて、猫を車の中に入れる。そしてそれを承知したと云うて受け取って来られるようなお夢であった』 猫を捨てると、だからどこへでも捨てたら直ぐに戻ってくるから、遠い所から合楽に参る間には川やらもあるから川に投げ込んで捨ててくれと言うわけなんですよ。それではと言うて引き受けられたけれども車の中で猫をずっと見てきて来られるうちに猫がね、可愛そうになってきた。                       そして捨てようと思って預かって来たけれども、どう思うても捨てる気持ちがなくなって、こりゃもう自分が貰うて育てさせて頂こうと言うておられるところをお夢頂いたんです。
 私は今日はね、そう言うようなここで猫と言うのは不浄(不成)と言われます。不浄とは成就せぬこととも、または不浄穢れと申しますから、そう言う意味にも頂いてよいでしょう。または願いの筋が一寸ちがいはせんかと言うような場合もありますよね。
 只自分だけを中心にして願われる願いと言うものは得てして、そう言う事が多いのです。只商売繁昌なら商売繁昌と願う。そりゃ願わなければなりませんけれども。その願いにはちゃんと御神意、御神慮に添い奉る願い方があると言う事です。どうぞ商売繁昌のおかげを頂かして下さい。
 そして神様に喜んで頂くような御用の一つでも出来るようなおかげを頂きたいと言うふうに、ちょっと祈りをそこへ持ってくると、その願いと言うものは我情でもなければ我欲でもないことになりましょう。まあ例えば理屈を申しますとそうです。どうぞ一つ助けて下さい。健康のおかげを一つ頂かして下さいと願うてです。健康のおかげを頂いたら、言うならば腕力で人をいじめたり、または夫婦喧嘩をしたり、ようなっためにかえっておかげを落とすと言ったような例も沢山あるのです。
 もう本当に粟粒結核で助からんと言われた人が合楽にお参りして来て助かった。もうそれこそ母親の一心で助かりましたが、その青年が村内の青年何人かで村の牛泥棒をした。新聞にまで載った。その時に母親がお願いに来てから言われた事が、今でも私はその事を忘れませんけれども「親先生あの時、助けてもらわん方が良かった」と言いました。 
 だから今日、私が皆さんに言おうと、お願いするにしても筋が言えなければいけないと。それこそ医者が助からんと言う病人が助かった。そしてそりゃ大きな男でした。その青年も、ですから村内の不良の青年と何人かで組んでから牛泥棒をした。それが新聞にでかでかと出た。それを見て母親が思った事。 
 親先生あの時、御無理を言うてお願いせん方がよかった。もうあの時死んでおったらこう言う事もなかったろうにと言うわけなんです。言わばお互い頂くおかげと言うものがね。かえっておかげではない。どうぞ商売繁昌を願って繁昌のおかげを頂いた。そしたらその息子なら息子が出来そこのうたと言うような事になったら神様が折角下さったおかげもね。おかげにはならない事になる。
 願わして頂いてお道の信心が分かると言う事は、自分の只願っておる事が我情我欲を満たして下さるためのものであってはならない。只我情我欲を満たして下さるためのものであってはならない。只我情我欲を満たしさえすれば良いと言うような過去日本人の宗教心と言うか信仰心の中にはね。只悲しい時の神頼みと言うのが多いのです。それがお道の信者の中にもやはり沢山あると言う事。
 只自分の事だけが成就すればそれでよい、丁度一生懸命願うから成就もする成就したその事がかえっておかげを落とす事になったり、かえって悲しい思いをせねばならないような結果になる様なおかげでは、下さった神様も残念なら頂いた者も残念。それを取次いで下さる金光大神も残念と言う事になりますでしょう。
 神も喜び金光大神も喜びそして氏子もの喜びと言う様に本当に取次いであげたおかげでこの人の一家が助かると言う様なおかげにつながっていかねばならん。その人が助かったおかげで周囲の沢山の人が助かるような事にもなって来たと言う様なね。おかげでなからねばいけない。
 これが言うならお道の信心をしておかげを頂く根底にはそう言う一つのものが内容がなければならんと言う事です。ところがです。私共生身を持っておりますから様々な事がございます。これは道ならん事だと、人道的に言うてですと思うのだけれども、自分の心が止むに止まれないどうにも仕様がない。おかげを頂きたい、ここを助けてもらいたいと言う願いがありますよ。
 私が今朝からお夢頂いたようにそれは不浄ぢゃないかと、またそう言う願いは成就しないぞと、はっきり分かっ取るような願いもあるんです。昨夜、熊谷さんのお導きで以前何回か参って来られた夫婦が若い夫婦ですけれども参られた。それで御両親と一緒に生活をしとられるが別居したいとこう言われる。
 だからその事を神様にお取次をさせて頂いて、私がそれを聞かせて頂いてる間はです。折角、外へ二人出ておられましたが帰って見えて、それこそ両親も喜ぶであろうし、まあ一緒に円満に親の許で親孝行しながら一緒に生活されたが良かろうと、これは私は思ったんです。Z『それでもそれが願いですから神様にそのことをお取次ぎさせて頂きましたら種をまくと、二つの葉が出ましょうが。だからこれは野菜でも植物でも同じでしょうけれども。いわゆる双葉が出るわけです。これは一本だけれども葉は双葉。ここを頂きますから、はあこれは別居されるが良いなと思いました』
 けれどもね、どうもお母さんと仲が悪いから、お母さんとあまりよくないからとか、あんまり嫁が無愛想だから。そう言う理由で別居したんではいけませんよとね。両方が立ち行き両方が、それの方が良いから別居するでなからにゃいかん。悪いから別居するのではいけない。だからそこらへんの内容をよく神様にお願いして円満に別居される。そして親よ子よと言う思い願いも一つで一つ屋根の下で生活しとった時のような状態で別居するのでなければいけないよと、こう申しました事でしたけどね。
 考えて見ると若い者の得手勝手、若い者のわがままのように思います。けれども内容が、仲が悪いから別居する。これなら神様は許されないでしょう。けれども双方のためにそれが良いのであるならば、神様はそれの方がおかげとまあ言うて下さるわけです。 
 例えば猫を預かったようなものです。途中で捨ててくれ。それは不浄だと不成と言う意味はいわば成就しない事やら、または不浄穢れと言うそれもありましょう。金光様の信心はそげな事ぢゃでけん。親子仲良うして別れとっちゃ一緒に生活させてもろうて親孝行させてもらうのがお道の信心ぞと、普通こう思いますけど。ならその内容が変わってくればそう言う事になる。
 そこでどう言う事になるかと言うと猫を預かった途中で捨ててくれとこう言われる。なら捨ててあげましょうと言うて受けた時までは、これは不浄である。ところがその猫がね。途中で段々可愛そうになってきた。もう最後の頃には神心になってきた。これは自分が育ててあげようと思うようになってきた。            だから同じ不浄の穢いと言うことでもよいでしょう。または不浄・成就しないと普通では思われないことでも願わせてもろうて一心を立て。そして内容が変わって来ると言う事。可愛想と言う心が生まれてくる次には可愛いと思う心が神心とおっしゃる。その不浄でも捨てずに私が育てさせてもらおうと言うような神心が生まれてくる時に、それは成就になると言う事です。
 私は今朝からその不思議なお夢を頂いて、今朝どう言う御理解を頂くだろうかと思うたら一心を立つればとこうおっしゃる。昨日は御礼信話会に臼杵の方達がいくらもお参りになっとられました。その中の一人が発表しておられましたが。大体その方はクリスチャンなんです。だから御親戚やらは皆金光様の信心をなさるんだけれども自分は金光様の信心は程度の低い信心のように思うておった。
 そして信心とはキリスト教ではよく言うです。礼拝とね。言うならお道で言うたら御祈念をする。拝ましてもらう、礼拝をする。そう言う事だけが信心と思うておった。手を神様の前に合わせることが信心だと。御利益なんかと言う事は、ところがその方が或る人間、ギリギリの或る問題にぶつかった時にです。           もしすがって助けてもらうなら、すがってみろかと言うのが合楽への初めての御縁であった。そして話を聞けば聞くほどにです。成程この神様は言うならば本当に人間が助かるためにある宗教だなと言う事が分かって来た。初めて参って聞かせて頂いたのは土の信心であった。それこそ黙って治めると言う信心を聞かせて頂いて、それを実行に移す事の修行を始められた。
 中学三年生になる娘さんがおられるそうですが、もうなかなか反抗期で親の言う事など聞かない。ところが私がそう言う修行に本気で入らせて頂くようになったら、娘が近頃大変に素直になったと言う体験発表がごさいました。
 言うならキリスト教の信心をなさっとったのが、それをスパッと切られたところが素晴らしい。そして人間が助かる事の為の宗教、金光教、人間が助かる事のための合楽理念。この合楽理念に基づく生き方と言うものをです。ここに人間の幸せの生き方をすれば幸せになって行けるだろうと言う確信が、これからいよいよ募る事でしょうし、出来て行かれる事でしょう。              一心を立つれば直ぐにおかげが受けられると言うのはそう言う事ではないでしょうかね。私共の信心と言うものがね。その方が昨日ここでお届けをされますのに、この前お参りした時に本気でと言う事を届いた。ところがなかなかその一つの大きな願いがあるからです。けれども本気でおすがりをすると言う事が本気になると言う事が難しい。どうぞ本気で信心させて下さいと言うお届けがございましたが、そうぢゃんな、それを願うとかにゃいけん。       今本気になれと言うたっちゃ直ぐ本気になれるもんぢゃないけれども。そう言う願いを持っておると何かの調子にですかね。それこそある日に突然、自分の心の中に響いてくるものがある。
 そこから本気になる。そこからこんなにも難しいと思うておった事が本気になりゃ。こんなにも容易うなると言う実験をこれからされる事であろう。だから結局は本気にならねば一心は生まれない。 いわゆる一志一心である、一つの事の志。一つの事は願いと言える。それに一心になって進む、そこでです。一志、一つの志を起こすと言う一志の発心をするわけ。                ならばそれこそ神様が間違いなく喜んで下さる。しかも豊かな大きな願いを立てる事が良いと思います。小さい事に一志一心ぢゃなくてです。本当にこれなら絶対神様も喜んで下さり金光大神も喜んで下さるだろうと言うような願いが持てるようなおかげを頂く。そしてそれを一心に貫くと言う心が生まれたらそこから信心は有り難いもの、しかも愉快にまで高められて行く信心は、そう言う信心からしか生まれてこないと思うです。
 昨日ある方がお届けをしておられましたがね。今度の御造営に当たってどうしても自分の心を定まらない。まあ、おかげ頂いとるけれども、そこに本当に大きな願いと思うけれども、なかなかお取次を頂く気に、それこそ、はまって本気でお取次ぐ事が出来なかった。 けれども、四、五日前だったでしょうかね。それこそ私で出来ない。それこそ一生かがりでも一千万円のお供えをしたいと言う願いを立てられた。そしてお取次を頂かれた。
 それから親先生まだ四、五日ですけれども、これは昨日の事の話です。次々と起きてくる事柄がです。もう本当に私の願いを神様が聞いて下さったなと思うような、響き返りがあることに畏れ言っておりますと言う。これは親子三人で話し合って、私どんが親子三人でその事の願いの成就するおかげを頂かんならんと言うて。お母さんが子供さん達にこの事を言うて一心にならせて頂いておる。一人一人の上にほんに神様のおかげぢゃ不思議のうやと言うて、働きが起こっておると言うて昨日はお届けがございました。
 だからなかなか一心を立てると言うか只立てるなら神様が絶対喜んで下さることにその焦点をおかねばいけんのです。一心を立ててもそれが我情我欲のための一心であったんでは、それが不成に終わると言う事になりましょう。けれども今日の御理解はね、不成に終わる事でもです。またそれは実際は不成だと。金光様にはそう言う事はないけれども、それが罪穢れであるような事であってもです。願いの焦点がその内容を変えていくならば、またそれも成就すると言う事を聞いて頂いたんですよね。
 その辺の所を一つようと思うて見て下さい。お互い我情我欲を願ってますよ、ありますよ。けどそのためには内容を変えていけと、神心、可愛想と思う、それを可愛いと思う神心にまで高めてゆくならばです。ならこの猫は私が育てようと言うような心の状態になってくる時に、それは成就すると言う事になってきます。
 同時にまた私共が願いとしておるそれがです。絶対のもの、いや神様が絶対喜んで下さると言ったようなもの。それを見極めさせて頂いて、それこそはまって一心に本気になってそれを願うならばそれこそ響き返ってくるように、そう言う働き、そう言う印が見えてくる。そこに楽しさも生まれてくりゃ有り難さもいよいよ募ってくる。それが一つのリズムともなってその事が成就していく。    そこから確信が生まれて来る。それがそのまま御神徳となって言うならばその方がもし、それが成就した暁にそれこそ一千万円の徳を受けられた。使っても使っても一千万円あると言う徳を受けられたら、どう言う素晴らしい事になるだろうかと思うですね。ですからそこの辺りの所の見極めをつけて願う。同時に私共の願う我情我欲であることでもです。それは願うてはならんぢゃない。内容を変えていかなければいけない。
 別居の願いがあった。そげなと言わずにお父さんお母さん一緒に生活されて仲良ういかれる事がお道の信心ですよと、普通では言いたい感じのお届けであったけれども。神様にお願いしたら双葉を頂いた。あっ二つになる事もおかげだと気は一つである。仲の悪いから別居をしたのではなくて、話し合いでしかも双方が、その方が良いと言う答えを出して別居する事になるとです。
 その内容と言うものいよいよ、あっもう別れたからと言ったようなもんぢゃなくて、いよいよ密なるものが、別れてから密なるものが生まれてくると言ったような更なところに内容が変わって来なければいけない。
 今日はここんところをね。今日は私がお夢に頂いたと言う話をもう一遍皆さんが思うて見て、私共が不浄と思うことでも願わんならん場合がある。まあ最近それをコントロ-ルと言ったような意味で申しておりますがです。私共の心の状態が進んで行く事によって素晴らしいコントロ-ルが出来てくる。              そこに成就しない不成に終わるものでも成就すると言うおかげが受けられると言う事を私共が折角願うなら。これはもう不成ぢゃない、絶対成就する。神様が喜んで下さる事なんだもの。金光大神がお取次甲斐のある、言うなら事柄なんだもの。だからそれを本気ではまって一心にそれこそ願う、お取次を頂かしてもらうと言う事になれば。昨日私がお届けさせて頂いた婦人のようにもう本当に早速にそう言う働きが起こって来ておると言う事でございます。    これならば徳になる。神様が喜んで下さる事に向かって一志一心を立ててもらうと言うのでございますから。それが貫かれた暁には、例えばそれがお金の事だけではありませんけれども一千万円なら一千万円と言う目当てが成就した暁には一千万円のお徳を受けられるであろうと。                         徳を受けるためには神様の気感に適った心に適った願い。しかも小さい願いよりも大きな願いを立てなければいけない。そう言う私共でも、これはやはり我情だろうけれども我欲だろうけれども。ここはおかげを頂かなければ体が保てん、身が保てんと言うような場合もこざいます。
 ですからそう言う時にはです。いわゆる内容を変えて行く事に精進させてもろうて願いが成就する事にと言うようなおかげの表われ方。どちらにしても一心を立てなければいけない。あの人にも頼んでこちらにもお願いすると言う事は一心が立つと言う事にはなりません。一志一心です。「どうぞ」